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施工山本の城巡り~江戸城~

施工山本の城巡り~江戸城~

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 城巡り~江戸城~




 長野市松代城をPM1:30に出発すれば、車で都心には夕方には着いて城散策なんとか

できないかと思っていましたが軽井沢あたりから渋滞したためあきらめて埼玉スパ

休憩し城巡りは翌朝からとなります。





 5月4日(水)早朝。江戸城の散策です。江戸城本丸跡(皇居東御苑)に入る大手門

開門が9時過ぎ。





 それまで皇居(皇居+東御苑)の外堀外周り早朝ランナーと逆の時計まわりで散策です。

(皇居ジョギングは反時計回りと決められているようでした。)



    (手前が桜田二重櫓、奥に見えるのが富士見三重櫓)



 大手門の続きの隅櫓・桜田二重櫓をまわると皇居外苑皇居前広場となり桔梗門

(きっきょうもん)、坂下門がみえます。


 




 とにかくひろい広場を進むと、皇居の修学旅行記念写真皇居写真として定番の構図

二重橋越しに伏見櫓が見えます。

 橋の左の門は江戸時代、西の丸大手門でしたが皇居造営の時に桝形門の手前の門を取り

除いた渡櫓門皇居正門としました。





 私も勘違いしていたことですが手前に見える優雅な『正門石橋』とすぐ奥にある『正門鉄橋

の総称として二重橋と呼ばれていますが、厳密には奥の鉄橋のことだそうです。

奥の鉄橋は江戸時代、堀が深く橋脚が建てれなかったため広い堀を渡すのに現在のトラス工法

ような木造の上の橋桁、下の橋桁とそれをつなぐ構造で掛かっていたため二重の橋の形に見えた

ため『二重橋』とよばれました。





 続いて桜田門の内側の門、渡櫓門(わたりやぐらもん)が見えてきます。





 櫓門をくぐった外側にある高麗門(こうらいもん)と石垣と建物に囲まれた桝形の

構造合わせて桜田門といい、外門をやぶり侵入した敵が桝形に囲まれた部分に入って

くると四方から弓や鉄砲で攻めるという日本の城の門の構造形式なのです。





 外側の門を出ると桜田門外となり。長い江戸時代の中の有名な事件がいくつかおきてますが

そのひとつの事件の舞台になった場所となります。 





 桜田門外の変〔歴史教科書にも出てくる1860年に桜田門近くで起きた元水戸藩士17名

と薩摩藩士1人による幕府大老(将軍の補佐)・井伊直弼の暗殺事件-。

 ⇒これは将軍跡継ぎを強引に決めたこと、ペリー来航でアメリカ都合の日米修好通商条約

朝廷の許可なく結んだこと、またそれに反対する勢力(水戸藩吉田松陰)を抑え込んだ安政

の大獄がきっかけとなっています。またこのことで尊王攘夷が広まる要因となりました。



              (半蔵門)



 桜田門を出て堀沿いを進むと半蔵門、乾門、北桔橋門、平川門と進んで大手門に

戻って行きます。







 皇居ランナーは、みなさん個性ある格好で逆まわりの正面で向かうように走ってこられる

ためかよく判別でき何周まわるのかわかりませんが3回すれ違う人もいました。結構早い

ペースで走られています。





 隣接するビル街には人はいませんが、皇居まわりだけ人が走っているようです。GW以外だと

ビル街も皇居ランナーも多いのだと思います。






 開門まで時間があり江戸城のはじまりを調べてみると、江戸城はもともと1457年に麹町

(こうじまち)の台地の東側に太田道灌(扇谷上杉氏家臣)が築いた平山城です。

1590年徳川家康が江戸城に入城し徳川の居城となりました。





 関ヶ原の戦い後、江戸幕府が開かれると大規模な拡張工事が慶長期(家康、家忠時代)

に行われ、その後も2度の拡張工事により日本最大の城郭となり、江戸時代260年間、

徳川15代、江戸幕府の政務を行う城でした。





 午前9時前には大手門前には人が集まってきました。本丸へ向かいます。

大手門江戸城の正門で、大名はここから登城しました。





 他の門と同じように枡形門の形となっています。





大名はここから馬や籠から降りて歩いて本丸に進んだようです。





 大手門をくぐり進んで行くと次に見えてくるのが同心番所(警備の詰所)です。





 番所の位置も桝形にあり当時その前後に高麗門、渡櫓門があり、現在は石垣のみ残り、

大名に対し徳川の権威をみせつけるため、大手門からの石垣の石も大きく隙間もない

しっかりとした積み方がさされています。





 続いて中之門前の広いスペースに沿って24時間体制で100人の同心が配置されていたこと

から百人番所と言われた建物があり、いわゆる検問所になります。





 中之門(当時はここも渡櫓門の形)の奥には位の高い武士が勤務した大番所があり、

本丸に繋がる警備上重要な最後のチェックポイントとでした。






 かつて城内には多くの櫓がありましたが、現存する櫓は富士見櫓伏見櫓(たつみ)

の3つとなり、富士見櫓は天守がない時代、天守の代わりに使われ、将軍富士山両国花火

品川の海を眺めたとされています。



              (富士見櫓)



 江戸城本丸には広大な本丸御殿があり。その中に赤穂浪士討ち入りにつながった浅野内匠頭

長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)への

刃傷事件(1701年)があった『松の大廊下』跡の案内もあります。





 当時の建物である防御施設の長屋造りの富士見多聞は中を見学できます。





 建物は当時のものですが筋違(すじかい)のように斜めにはいっている構造材は筋違の

考えがなかった当時のものではなく、関東大震災以後に補強されたものだそうです。





 本丸御殿の大奥の脇にあった石室は諸説ありますが火事などの非常時に大奥の調度品を

避難させた施設と考えられています。





 家康入城以来、慶長天守、元和天守、寛永天守と3回天守が建てられました。

寛永天守が明暦の大火(1657年)により焼失した後、現在残る天守台は天守再建を目指して

新しく1659年に築かれたものですが幕府内で天守不要と結論が下され、江戸の町の再建を

優先されたため天守が建てられませんでした。





 江戸時代、天守があった50年間の後、天守がない210年間が続いたということになります。

平和な江戸時代に天守は必要なかったのでしょう。





 天守台からは北側の桔橋門(きたはねばしもん)が見えます。北桔橋門の向こうに

武道館が見えると聞いていましたがわかりませんでした。





 天守台を見学したあとは天守台の横から梅林坂を下って二の丸を見ながら平川門から

出ました。





 江戸時代、天下普請(全国の大名が幕府命令)で築かれた日本最高峰の城であった

スケールの大きさ、残る建物の美しさ、歴史の有名な場面とその場所を感じることで

当時と繋がった感じがしてとにかく感動です。





 まだ、昼まで時間があり、せっかく混む中、関東まで来たので、以前、東京からの

バスツアーでいったことがありますが、バスの工程が遅れて暗くなってからの見学でよく

見てまわれず納得できていなかった福島県にある会津若松城にいってみましょう。






 施工 山本


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