施工山本の城巡り~因幡河原城・備中高松城~

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今回は4月に桜の城3のブログをあげるために、4月2日にすでにいっている
城の中でも桜の城として有名な米子城、鳥取城を訪問した時に 立ち寄った
鳥取城の近くの因幡河原城、広島へ戻る途中の備中高松城を紹介していきます。
城巡り~因幡河原城~
鳥取市河原町にある河原城は正式名称『丸山城』といいますが、鳥取市内には丸山城
という城跡が3つもあり、1994年(平成6年)ふるさとづくり一億円事業「自ら考え自ら
行う地域づくり」による町民からの提案募集により決定し河原町のシンボルとして城跡
に犬山城天守を模した展望台(模擬天守)が建てられて以後、他の丸山城と区別するため
河原城と呼称しています。
1580年に織田信長の命により羽柴秀吉による鳥取城の山名豊国を攻める第一次鳥取城攻め
の際、秀吉の本陣だったかは不明であるが陣が置かれたと伝えられています。
1991年の城跡発掘調査が行われ曲輪跡、堀切跡、掘立柱の跡が発見され古城跡であったと
再確認されていますが、攻める際の陣であるため天守はなかったと考えるべきでしょう。
第一次鳥取攻めで鳥取城は3か月の籠城戦の末、和議により山名豊国は信長に降伏しますが、
同月、毛利勢が来訪すると再び毛利氏に降伏して城将が入れ替わり、山名旧臣が毛利氏重臣
『吉川経家』を迎え毛利氏への従属を継続したため信長の武将の中国地方担当の秀吉は
第二次鳥取城攻めを行い。『鳥取城の渇え殺し(かつえ殺し)』と言われるほどの悲惨な
籠城戦と進んでいきます。(第二次鳥取城攻めには河原城に陣は置かれていません)
(距離として13km。少し遠すぎますが当時はもっと空気もきれいでぬけるようによく
見えたのかもしれません。)
桜まみれの鳥取城
桜まみれの鳥取城の写真の山頂の遺構を見ると、それが見えているのだと思います..
城の山展望台河原城の模擬天守に上がると望遠鏡があるらしく それを使えばよく見える
みたいですが閉館中のため、登れません。
当時のお城の配置資料や絵図、建物跡が一切残っていないだけに、美しいお城を真似して、
あたらしく計画して建てればよかったのか特別格好のよい天守に思えるのは私だけで
しょうか。散策した時は通常の城の進入口は土砂崩落に伴う通行止めが続いており、
復旧の見通しが立ってないそうですが迂回路があり、車でもいけるので、桜のきれいな
『桜の城』の一つなので、是非 見に行ってください。
城巡り~備中高松城~
『本能寺の変』で織田信長が打たれ、豊臣秀吉が主君の仇敵・明智光秀と対決すべく
『中国大返し』の強行軍で京へ向かって引き返していった時に攻めていたのがこの
備中高松城(岡山県岡山市北区高松)です。
築城時期ははっきりしていませんが戦国大名三村氏と家臣石川氏がこの地域を治めていました。
1575年の備中兵乱で三村氏、石川氏が毛利氏に滅ぼされたのち石川氏の重鎮で
ありながら毛利に加担した清水宗治が城主となります。
1582年信長に秀吉が中国攻めの先鋒を任せられ『備中高松城の戦い』にかかります。
城の周りは沼地に囲まれ難攻不落とされていたため持久戦となりますが、黒田孝高の逆の発想
から城を堤(つつみ)で囲み湿地であった高松城を水没させる世に言う高松城水攻めです。
過分な金を与え人夫を集め11日の突貫工事で堤が完成。梅雨時期であり城は水没しました。
招き高松城が落ちるのを見せる予定でしたが 信長はその途中 京都で本能寺の変が起こり
打たれます。 諸説ありますが 明智光秀の毛利氏への密使が毛利氏につながる前に秀吉軍に
つかまり殺され(この時点で毛利氏は信長の死が伝わってない)、信長の死を知った秀吉は
毛利方と和議を急ぎ成立させ、城兵の命の保障するかわりに清水宗治を切腹させ中国大返しで
明智光秀と対決に向かうのです。
現在、秀吉の築いた堤や城の石積の一部がわずかに残っているようですがほとんどなく
清水宗治の自刀の碑、宗治の首塚、胴塚、
があり公園として整備され、歴史資料館も置かれています。
この時の水攻めを意識したのか1590年秀吉の天下統一の仕上げとして小田原城北条氏攻め
の時に別動隊の石田三成は北条方成田氏の忍城(おしじょう、埼玉県)の水攻めをしていますが、
水がたまらずうまくいきませんでしたね。
ありませんがバスまで停まれそうな駐車場もあり幟旗まで建てられおとずれる人も多い
のかもしれませんが。もう少し模擬の城の建物でもあればもっと盛り上がるのにと勝手に
思ってしまいました。