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施工山本の城巡り~亀居城~

施工山本の城巡り~亀居城~

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  城巡り~亀居城~



 8月11日、なかなか県外に出ることができないため、今回は広島の人でもあまり知ら

れていませんが(大竹市の人にはもちろん有名です。)

広島県大竹市小方にあります亀居城(かめいじょう)に行ってみます。

(小方城ともいわれる城は亀の形ににているということから亀居城といわれるそうです。)



 亀居城は山陽自動車道、下り大竹出口の向こうに見える山が亀居城跡になります。

 こう見ると山のつづきのようですが、城郭構造としては標高88メートルの山に築かれた

平山城の分類となります。 


 (2号線下り大竹インター入口前の小山が亀居城 この角度だと亀ですかね)                 

1600年の関ヶ原の戦い豊臣恩顧でありながら朝鮮出兵における意見の対立により石田三成

と険悪な関係であった福島正則は豊臣側の武将を引き連れ、徳川方に味方して徳川家康側の

大勝利となります。  


        (市指定史跡 亀居城跡)


 キーマンであった福島正則は広島への移封となり、安芸国、備後国(広島県)2か国

49万8000石大大名となり、広島城に入ります。



 関ヶ原の戦いで、徳川方優勢を確信し、徳川に内通して本家の毛利存続と領地を残す

ことを条件に西軍ながら陣から動かなかった吉川広家岩国城に移封となり、前に陣とって

いた広家が動かなかったため毛利本隊毛利秀元(毛利元就の四男の穂井田元清の次男)は

動けず徳川方を攻めることができませんでした。

西軍総大将に担ぎあげられていた毛利輝元は、敗者側の総大将として殺されるか切腹

させられ毛利氏もなくなるのが普通だったのかもしれあせんが、吉川広家の徳川側への




働きがけにより毛利氏は領地を大幅に削減され長門国、周防国29万8千石と減封とされ

毛利輝元隠居することにはなりましたが毛利氏は存続することになりました。




 そのため、毛利と徳川との決着はついておらず不穏な状況となっていました。

福島正則は毛利氏の上方への侵攻を防ぐため安芸国西部の山陽道を押さえる小方に

1603年、城を作り始めます。 



 5年の歳月をかけ完成し、現在、海から多少離れた位置ですが当時は、海に面し港を備え、

山陽道を城内に取り込み。本丸、二の丸、三の丸、有の丸の曲輪を備えた10haの支城とし

ては巨大な堅城は、逆に家康からの疑念を招きました。



 城主は正則の甥の福島正宣が城主となる予定でしたが、前年、死去しており、

山田小右衛門、森佐助が城代として入城します。



 豊臣氏と徳川氏の衝突の危機が高まると、徳川からの豊臣恩顧の福島氏への圧力

が強くなり、1611年の亀居城の完成3年後に破却されました。



  その時に天守や建物も撤去され城は荒れに荒れて草木に埋もれましたが、

1977年(昭和52年)発掘調査がされ、修復も進み亀居公園と整備されました。


          (天守台)


(当時の石積か修復後の石積か、積み方の違うものがあるのがわかりますが、わずか

3年の城なので興味をもつ人も少ないし、資料も少ないのか掲示もなくよくわかりま

せんでした。)


(宮島から周防大島まで見えるので、もちろん岩国方面も当時見えたのかもしれません) 


 現在は桜の名所散歩コースとして市民に親しまれています。 



 福島正則は関ヶ原の戦いでは石田三成に敵対し関ヶ原徳川方勝利のキーマンとなりま

したが豊臣恩顧であり、その後の豊臣家への対応が家康の強い警戒心を生み、その後

の広島城の城郭の改修に難癖つけられ、安芸、備後の領地を没収され、信濃、越後へ

減封となります。 



 他の大名への見せしめのように、正則の子、正利は3千石の旗本にまで身分を落とし

ていきました。 それも徳川の力を強固なものに進めるためのことだったのかもしれません。 



 施工 山本


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