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施工山本の城巡り~月山富田城~

施工山本の城巡り~月山富田城~

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 城巡り~月山富田城~



 5月2日、福井県越前大野城一乗谷城福井城、富山県富山城、長野県上田城

小緒城の強行軍での散策のあと夜、車を走らせ北陸道から山陰へ抜けて広島に帰る

途中に島根県安来にある月山富田城によって早朝の城散策をしようと思っていまし

たが、途中の休憩でガッツリ寝てしまいまして、着いたのは5月3日PM3:00。

急いで散策します。


           (道の駅 広瀬・富田城)


          (太鼓壇から見た馬乗馬場)


 島根県安来市広瀬町富田の靴のような形の月山(190m)の一帯にある巨大で難攻

不落の城として戦国時代屈指の要害であった月山富田城は諸説ありますが、平安時代

平家の平景清(藤原景清)が築いたと伝えられます。


    (尼子家再興のため尽力した山中鹿介幸盛の銅像)



歴代の出雲の守護の居城であった城は戦国時代には京極氏の守護代であり富田城の

尼子経久(つねひさ)が下克上により京極政経に対抗し戦国大名として独立して

いったん富田城を追われますが富田城の奪回に成功してからは山陰、山陽十一州

収めた尼子氏歴代の本拠地となり、山陰、山陽制覇の拠点となり繁栄しました。


     (安来市観光協会発行のサッシにある案内図)


 (中層の山中御殿の広い敷地越しに正面に見る月山山頂部に本丸、二の丸、三の丸の主要部がある)


 尼子経久の後を継いだ尼子晴久の代には安芸の毛利元就に侵攻され、1566年

尼子義久籠城戦の末、月山富田城は開城されました。(月山富田城の戦い)


           (軍用大井戸越の山中御殿)


           (広い山中御殿おあった曲輪)


 尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となり毛利氏の城代が入れ替わます。

 吉川広家(毛利元就の次男の吉川元春の三男)が城主となってから中世の山城は、

石垣が築かれ、瓦葺の櫓や土塀も作られて近世城郭へと大きく変貌しますが、

広家は米子城の築城も始めます。



     (山中御殿から七曲りの坂に向かう階段)


 米子城築城途中の1600年の関ヶ原の戦いの結果、吉川広家は周防国岩国に転封となり、

関ヶ原の戦いの戦功により堀尾忠氏が隠岐、出雲24万石を得て月山富田城の城主となり

ますが山城である富田城が近世城下町の構成要件にあわなかったため、1611年堀江忠晴

の時に宍道湖北側湖畔の亀田山に松江城を築城し、月山富田城は廃城となります。


 (七曲りと呼ばれる急な何度も切り返す坂を登って三の丸の石垣あ見える)



 (山頂部、三の丸から下層の手前から山中御殿、花ノ壇、太鼓壇、千畳平を見下ろした)


 月山富山城の現在残っているのは石垣や堀や曲輪あとのみで当時の建物は残っていません

が天然の地形を利用した城は南東以外の三方は急激な斜面であり、菅谷口、御子守口、

塩谷口の3方向からしか攻められず、城の下段が奪われても、中段で防ぎ、中段が落ちても

月山に登って防ぐことができる構造で頂上は堀も築かれ守りが固められた城は一度も落城

しなかった難攻不落の要塞城は天下の名城と知られ国の史跡に指定されています。


            (二の丸)


          (二の丸から本丸を望む)


 天空の城としても有名でハイキングコースも整備されており、麓の道の駅『広瀬富田城

には歴史資料館、土産物屋、食事処もあり観光客も多いようです。


             (本丸)



            (山中鹿介幸盛記念碑)


 ハイキングコースというより、整備された大変な山道ですが、頂上まであがってから

城全体をみないと、この城のすばらしさをかんじられないかもしれません。

登ってみてください、

本丸からの眺めは素晴らしく、中海、島根半島、弓浜半島が一望できます。



            (三の丸の石垣)


 駐車場までもどってくると、もう夕方です、前日からの城巡り6城散策の強行軍と

最後の山城散策で足ガクガクです。




 施工 山本


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