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施工山本の城巡り~一乗谷城~

施工山本の城巡り~一乗谷城~

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城巡り~一乗谷城(いちじょうたにじょう)~


 5月2日、越前大野城散策のあと戦国時代朝倉氏5が103年間にわたって越前の国

を支配した城下町跡。武家屋敷、町屋や道路の町並みが発掘され国の重要文化財に

指定されている一乗谷城(一乗谷朝倉氏遺跡)に向かいます。

今回6年ぶり2回目の散策となります。



 福井市街東南、福井平野から山間に入った九頭竜川支流足羽川のさらに支流の一乗谷川

の谷あいに南北3km東西0.5kmの越前大野に続く美濃街道越前府中に続く街道

北陸道に続く朝倉街道などが通る交通の要衝を抑えられる場所にありました。



 朝倉氏南北朝時代には一乗谷を本拠地にしており、朝倉重臣が集住し応仁の乱により

荒れはてた京から多くの公家や僧侶、文人、学者が避難してきたため華やかな京文化で

発展し、4代朝倉孝景には全盛期で人口1万人を超えて越前の中心でした。



 一乗谷城は朝倉氏の館だけでなく城下町と周囲4つの山城、山には数多くの畝状空堀郡

で守られ、一乗谷の南北に城門を設けた縄張り全体をいうのです。



 室町幕府家督相続外で仏門に入っていた足利義昭信長にかかえられ室町幕府最後の

15代将軍に就任していたが、やがて信長と対立し5代朝倉義景武田信玄を呼応し

信長包囲網を形成して対抗するも武田信玄が病死したため、信長が主力を朝倉氏に

むけることができたため1573年朝倉義景は一乗谷城の戦い(刀根坂の戦い)にて大敗し、

大野へ逃れ、一乗谷は軍勢に火を放たれ灰となります。



 この時、朝倉と同盟を結んでいた浅井長政は信長包囲網側におり、織田軍はとって

返し浅井氏へ全軍を向け、小谷城を取り囲み、浅井長政は自刃し正室だったお市の方

(信長の妹)は救出されています(小谷城の戦い)。



 その後、朝倉を裏切り信長に内通した朝倉氏旧臣桂田長俊守護代職として一乗谷に

館を構え越前を統治しますが、同じ旧臣らに反感を抱き、民衆に一揆を起こさせる

よう画策され、一揆勢は一乗谷に攻め込み桂田長俊は一族ごと打ち取られました。

越前一向一揆



朝倉義景は逃れていた賢松寺への信長の襲撃により自刃しています。



 信長が一揆平定後、一乗谷は田畑に埋もれていきました。1967年(昭和42年)

発掘が開始されます。



 朝倉館跡正面の堀に建つ唐破風の屋根からなる唐門は朝倉氏の遺構ではなく、

のちに朝倉義景の菩提を弔うため松雲院の寺門としてたてられたと伝わり朝倉氏

が刻まれています。(現存するのは江戸時代に再建したもの)



 城下町あとも発掘調査や史料を参考に200mにわたって当時の町並みが復元されて

おり。実物大の町並みはその時代を感じられる面白い展示となっています。



 信長は一向一揆平定後の越前49万石を柴田勝家に与え、そのため勝家は1575年に

福井県庁、福井県警本部のある福井城跡の場所に北ノ庄城を築城しています。

現在の福井城の遺構はのちの結城氏(家康の次男)時代のものでしょうが行ってみる

ことにしましょう。



 施工 山本


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