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施工山本の城巡り~備後 三原城~

施工山本の城巡り~備後 三原城~

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城巡り~備後 三原城~


 2月28日(日) 今回は備後 三原城を散策します。

三原城は広島県三原市城町にあり広島市内から1時間かかりません。



 毛利元就三男の小早川隆景竹原小早川家元就の姪(隆景のいとこ)が嫁いでいました

が嫡子がなく養子に入ります。 その後 小早川本家の沼田小早川家も掌握し安芸国東南の

大勢力として三原本郷高山城、次に沼田川を挟んだ新高山城を本拠地としていましたが、

厳島の戦い(1555年)後の1567年瀬戸内海の水軍を掌握するため、 三原湾に流れる

沼田川に浮かぶ大小2つの中洲(島)を利用し、水軍の港を備えた水軍城の築城に着手。

増改築を重ね1580年に完成させます。



三原市の『やっさ祭り』は有名ですが隆景が三原城を築いたことを祝い、城下の人たちが笛

や太鼓の響きに合わせて踊ったのが始まりと伝えられています。




小早川隆景は瀬戸内海の水軍を使い活躍。 豊臣秀吉四国征伐(1585年)九州征伐

(1587年)の戦功により筑前、伊予を与えられますが伊予は返上、筑前に名島城

築いて居城にしました。



秀吉が茶々との間に実子秀頼が生まれると養子の一人、羽柴秀俊(小早川秀秋)を当時

まだ跡取りがいなかった毛利当主・輝元の養子にどうかと打診があり、毛利に縁もゆかり

もない者に本家を乗っ取られると思った小早川隆景はすでに毛利元就九男、毛利秀包

久留米城城主)を養子にしていましたが廃嫡し、自分がもらいうけると申し入れ、

小早川秀秋に家督を譲り筑前を与え。自分は隠居し三原城に戻ります。



隆景が死後の1600年『関ヶ原の戦い』では小早川秀秋は毛利輝元を総大将とする西軍を

裏切り、徳川方の東軍が勝利したため、その戦功で岡山城に移り、広島城には福島正則

その支城となった三原城には養子の福島正之が入りましたが、三原城に入った正之は発狂

し刺殺され、福島正則も無届での広島城修理を理由に信濃へ転封となります。

(毛利を裏切り、岡山城に移った秀秋は2年後病死しています。)



1519年和歌山より浅野長晟(ながあきら)が広島藩に入封、支城の三原城には浅野家筆頭

家老の浅野忠吉が入城し、浅野氏の支城とし明治維新を迎えます。



本丸の北側に築かれた天守台は広島城天守台の6倍、江戸城天守台に並ぶ広さでしたが天守が

築かれることはなく、三方に二層の隅櫓が築かれ二の丸、三の丸が広がり、満潮時には海に

浮いているように見え、『浮城』と呼ばれ完璧な縄張りと言われたそうです。



三原城跡は国の史跡とされていますが、隆景は予想さえしなかったと思いますが本丸跡は

JRの線路が突き抜け、新幹線の高架などが天守台横を通り、城の石垣とJRの建物がいっ

しょになったかんじで駅ビル建てる時、たいへんだったと思います。



 天守台に上がるのも三原駅たてものの二階から出る形になっています。



天守台からは新幹線ホームが同じ高さにあり、新幹線の車両をみることができます。



 一日一回通るとか聞いているローキティー新幹線に遭遇することができました。




三原駅南側には当時海に突き出て大きな波止の船入り櫓跡の石垣が残っており、一部当時の

島の波打ちのものと思われる岩礁も見られます。



散策してみると天守台周り以外は街はビルが立ち並びピンポイントで、石垣や堀や当時の

○○跡の表示があるくらいで城の全体像がわかりにくかったのですが、船入り櫓跡の看板に

当時の城の縄張りと現在の地図が重ねられ展示してあり。比べてみて城の大きさがよくわ

かりました。



 城の北側には西国街道が通っていました。現在のJRの北側になります。当時の建物ではな

いのでしょうがレトロな街並みです。



ひな祭りが近かったのでひな人形が店舗ごとに飾られカメラ女子やカメラおじさんが

ばえる写真を撮影中でした。


 施工 山本 


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