スタッフブログ

施工山本の城巡り~宮尾城・安芸勝山城~

施工山本の城巡り~宮尾城・安芸勝山城~

記事掲載日:

城巡り~宮尾城・安芸勝山城(厳島)~


 今回は大内氏毛利氏が戦った『厳島の戦い』の舞台となった、広島県の厳島(宮島)の

宮尾城、安芸勝山城を12月宮島で現場があったので何回かに分けてフェリー等の時間待ちで

散策しております。



 まずは厳島の戦いに至るまでの時代背景の話をしていかなくてはいけないと思います。

大内氏周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領し西国随一戦国大名でしたが大内当主

大内義隆は家臣 陶晴賢(すえはるかた)のクーデターにより自害に追い込まれます。

(1551年大寧寺の変


(フェリー乗り場の前にある低い丘陵が毛利方の宮尾城のあった要害山)


 陶晴賢は主君の甥の大内義長を当主に据え大内氏の実権を掌握しました。

大内傘下であった津和野城吉見正頼は主君を死に追いやった陶晴賢に対し挙兵し、1554年3月に

津和野城で100日以上におよぶ籠城戦がおこります。(三本松城の戦い)


(フェリー乗り場前の階段を上がると宮尾城跡)


 吉見正頼が挙兵したことを知ると大内氏に属していた毛利元就も、不満に思っていた陶晴賢と

戦うことを決断します。


      (宮尾城本丸跡)


 5月、吉田郡山城を出発し、大内氏の拠点であった佐東銀山城(広島市安佐南区武田山)を落と

し続いて己斐城(広島市西区己斐上)、草津城(広島市西区草津)を陥落させました。さらに毛利軍

は南下し、桜尾城(廿日市市桜尾本町)、門山城(廿日市市大野)を攻略、そして海を渡り厳島を

占領しました。(広島の知っている地名が出てくるので非常に面白いところです。)


       (宮尾城本丸跡・要害山頂上)


  佐東銀山城武田山にあった巨大な山城。鎌倉時代、武田氏が守護所を置いたのが始まり、

   政情不安に巨大な城郭が幕末に建てられるが、その後安芸武田氏は滅亡し、この時大内氏

  の城であったが城兵は津和野城へ遠征しており守兵がほとんどいなかった。

  己斐城…厳島神社の神領衆である己斐氏の山城で大内氏の傘下であった。

  桜尾城…厳島の対岸にある海城。厳島神主家が築城、この時 陶晴賢家臣が城番であった。

  草津城…桜尾城の支城。古代から水軍や水運の拠点であった海城。

  門山城…JR大野駅の北側にあり大野弾正が築城。大内氏が安芸侵攻の拠点とした山城。


(現在 二の丸は伊勢神社が祀られている。)


 毛利元就は戦力的に優位な大内軍にまともな戦いをすれば勝ち目がないため、山が海に迫り

平地の少なく大軍にとって行動が制約される厳島を決戦場に決め、厳島に大内軍をおびきよせ

るため、おとりのお城の宮尾城を築きます(1555年春)。現在のフェリー乗り場の前の標高

27mの丘陵要害山中心に建つ連郭式平山城で当時は乗り場前の平地や道はなく、海上に突き出

た山麓まで三方を海に囲まれていました。


 (当時の堀切りのあとなのでしょうか?)


 元就は宮尾城に厳島神社の神領衆である主将己斐直之と副将坪井元政(佐伯区坪井の武将)

に向かわせ500人の兵を与えました。彼らは大内方の己斐城、桜尾城で毛利軍に落ちた武将で、

元就の命令で必死に戦うしかなかったし、2人が毛利側に付き裏切ったとことで陶晴賢を怒らし

宮尾城を攻めさせる誘いだったのかもしれません。


(大内軍の先陣のいた塔の岡の塔が見えます)


 陶晴賢は毛利軍に集中するため津和野城の吉見正頼と和睦させ、  大内軍を率い大船団で

山口県玖珂出発、9月22日(1555年)早朝 大元蒲(宮島水族館西)へ上陸を開始しました。

陶晴賢は毛利元就の誘いにのり大内全軍を厳島に上陸させてしまうのです。


(厳島神社回廊の出口を出た宝物館裏の多宝塔


 陶晴賢は厳島神社を挟んで宮尾城とは反対側にある勝山城本陣を置いています。勝山城は

厳島神社御社殿回廊の出口を出た宝物館裏の多宝塔のある丘に築かれていましたが石碑のみで遺構

はみられません。


 (大内軍が最初に本陣を置いた勝山城)


 その後、先陣の置かれていた厳島神社御社殿回廊入口前の塔の岡まで本陣を進めます。

宮尾城側からも塔が見えます。


 (大内軍の先陣のいた塔の岡へ本陣も合流)


 宮尾城は数日で堀を壊され、櫓も崩れ落城寸前ですが500人の兵で持ちこたえていました。

おとりの宮尾城が落ちてしまうと奇襲作戦が失敗するため、26日には援軍が入り防戦を続

けますが、いつ落ちてもおかしくないのは変わりません。

この状況を元就は対岸の火立岩で見ていました。毛利元就は待っていたのです。


(西広バイパスが宮島街道と合流した宮島寄りの広電沿いに火立岩跡)


 毛利氏の水軍は200艘に及ばないため、因島村上氏、能島村上氏、来島村上氏の3島の村上

水軍の協力を要請していましたが、大内氏側も要請しておりどちらにつくかも、来るかもわ

かりません。

加勢を待っていては 宮尾城は持ちません。あきらめかけた28日になって300艘の大船団が

廿日市沖に加勢に現れます。


(宮島裏側の包ヶ浦には毛利元就上陸の碑があります。)


 9日の夜、毛利元就は3千の本隊を率い暴風雨の中 厳島の裏側の包ヶ浦に上陸、吉川元春

(毛利次男)を先陣に尾根に登り待機、一方小早川隆景(毛利三男)の別働隊は厳島神社

大鳥居から大内援軍と偽り上陸、塔の岡の坂下まで大内本陣に近づき元就の合図を待ちます。

大内軍は暴風雨と落城寸前の宮尾城に油断していました。10月1日早朝、元就が全軍突撃命令

を出します。



 毛利本隊が塔の岡の背後の山から紅葉谷へ駆け下り大内本陣を急襲、坂下の別働隊も坂を

駆け上り、宮尾城からも打って出て、挟まれた大内軍は大人数のため自由がきかず総崩れと

なり敗走します。厳島から脱出するため船の奪い合い、転覆して溺死者が続出、船を出せて

も沖合待機の能島村上軍によって火をかけられたりして逃げられず、陶晴賢は退路を断たれ

自刃します。


(厳島神社の大鳥居は工事中です)


 厳島の戦いで勝利した毛利元就は周防・長門への侵攻を開始して陶晴賢により当主に据えら

れていた大内義長は毛利軍に追い詰められ自害に追い込まれ、大名としての大内氏は滅亡に

至ります。

その後、毛利元就は大内氏の領地を併合していき、中国地方の覇者へと昇りつめていくのです。


 施工 山本


次のブログ  城巡りシリーズ 前回ブログ