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施工山本の城巡り~吉田郡山城~

施工山本の城巡り~吉田郡山城~

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城巡り~吉田郡山城~


 2020年11月15日(日)津和野城散策のあと、広島市内に帰る途中、 吉田郡山城(よしだ

こおりやまじょう)を散策しました。

吉田郡山城は広島県安芸高田市の吉田盆地北の郡山にあった毛利氏のお城です。

吉田郡山城の築城のはじまりは明らかではありませんが毛利氏が吉田荘の地頭として入った

のは南北朝時代なのでそれ以後になるのかもしれません。



 はじまりはのような小規模なものでしたが12代目の毛利元就の代になり国人領主から戦国

大名へとなるべき郡山全体に城を拡大させていきます。



 毛利氏は長年『周防の大内氏』の傘下にいましたが、『出雲の尼子氏』の勢力が安芸へ侵入

してくると大内と尼子の二大勢力に挟まれ、 1524年の佐東銀山の戦い(武田山にあった、

武田氏のお城において安芸へ進出しようとする大内氏と武田氏がたよった尼子氏が戦う)では

尼子氏について戦い絶妙外交で二大勢力にて対応しています。



 毛利元就が長男毛利隆元を大内側に人質として差し出し大内氏傘下を明確にすると、1540年

吉田郡山城の戦いで尼子氏が2万の軍で城を包囲して 籠城戦に持ち込みますが撃退され毛利

征伐失敗して毛利が勝利します。



大内氏が大寧寺の戦いで大内重臣陶晴賢(すえ はるかた)がクーデターにより当主大内義隆

(おおうち よしたか) を自害に追い込み大内氏の実権を握ると、 大内傘下であった石見

三本松城(津和野城吉見氏が陶晴賢打倒のため挙兵すると、



毛利氏も陶 率いる大内打倒のため挙兵、大内軍2万に対し毛利軍4千の圧倒的不利の人数であっ

たため、大軍に不利な平地の少ない厳島に誘い込み、1555年の厳島の戦いの奇襲攻撃により

大勝利。



 大名としての大内氏は滅亡、大内氏の所領を毛利氏が併合して、最大級の大大名になってい

ます。

郡山城は毛利輝元が広島城を築城し移るまで毛利氏の居城とした毛利氏のお城なのです。



関ヶ原の戦いの敗北で、毛利氏が山口周防国、長門国の2国に追いやられ安芸を去ると江戸幕府

一国一城令により吉田郡山城の建物は取り壊され、さらに島原の乱(1637年)が起きると、

お城跡などがキリシタン決起の場とされることを恐れ石垣や堀などが破却、撤去されてしまい

ました。


               (石積がことごとく崩されたのか残っていません)

幕末、広島新田藩が成立し、吉田郡山の麓に吉田陣屋が置かれていましたが明治の廃藩により

これも取り壊されています。


                  (毛利元就と毛利一族の墓所)

現在、城址には毛利元就毛利隆元など毛利一族の墓所のほか、「三本の矢」の伝説を記念した

石碑や百万一心碑があります。また山麓には毛利元就像が建てられています。


                  (毛利隆元の墓所)

山城なので城跡をぐるりと散策すると足がガクガクになりますが、いい運動だと思ってまわる

しかありません。広島市内から近いので行ってみてはどうでしょうか。

(運動靴と水分補給は必要です。)



施工 山本


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