施工山本の城巡り~石見浜田城~

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城巡り~石見浜田城~
11月22日(日)石見浜田城を散策しています。
(この日も朝一で津和野城の雲海を見に行くも発生しておらず、何かを見て帰らなければもったいない
ということで浜田城にまわったわけです)
石見浜田城は広島から国道186号を日本海側に進んでいくと島根県浜田市中心部に浜田川に囲まれた
亀山と呼ばれる独立丘陵に設けられた浜田藩のお城です。
お城の北の松浦湾には深い入り江があり日本遺産認定されている外ノ浦の港があり、天然の風待港で
西廻り航路として1672年整備されて以降、瀬戸内と北陸を結ぶ中継点として多くの北前船が入港する
浜田藩最大の港として発展しました。
江戸時代は廻船問屋が建ち並びさかえ、浜田城は丘陵頂上部の平地に本丸が築かれ、本丸南側に狭い
二の丸・三の丸、西側に出丸が築かれた平山城であるとともに海上交通を重視した海城でありました。
海上から亀山の頂上部分に三重櫓(天守台のない隅櫓が天守の扱いで建てられていたようです。 )が
見え、1626年スペインの宣教師は船上から築城間もない浜田城を見て「立派なお城である」と報告し
ています。
古田重治が大坂の陣の功績により浜田に5万4000石で入封、1620年築城開始。1623年城下町と城が
完成します。
2代古田重恒の時、お家騒動により改易。1649年松平康映が5万石で入封、松平氏,本多氏など譜代・
親藩が入れ替わり長州藩(毛利氏)の山陰側の抑えとしての重要視されたお城です。
幕末の長州征伐で長州軍に攻められたとき、浜田藩主松平武聡は城に火を放たせ城を捨てたため城の大
部分の建物は焼失しています。
現在 城跡の城山公園内には石垣のみが残っており、浜田護国神社が昭和になって建てられています。
城内にある『浜田県庁の門』は浜田城ゆかりの門ではなく、元々津和野城の門であり、置かれている
位置も浜田城の本来の門のない位置に建っています。
明治3年浜田県設置にともない津和野城から県庁舎の門として別の場所に移され、浜田県が島根県合併
後も浜田合同庁舎が移転するまで地方政治を見守る門として立ち続け、昭和42年島根県から浜田市に
譲渡され、浜田城あとに移築されたものです。
門の両側からまわり込め、横の石垣からのつながりも想像しにくく浮いて見えたのも当然かもしれま
せん。
施工 山本