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施工山本の城巡り~鳥取城~

施工山本の城巡り~鳥取城~

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城巡り~鳥取城~

三重県伊賀上野城から広島に帰る途中山陰側にまわり、鳥取市鳥取城の近くで車中泊。

9月21日(月)早朝、駐車場に車を留め、鳥取城のある久松公園を散策です。

鳥取城とは知らずに20年以上前に一回、来ているみたいです。鳥取城の扇御殿跡に1907年に皇族宿泊を意図に設計、

鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸として建てられたフランスルネッサンス様式の木造2階建て白亜塗国の重要文化財

仁風館』を会社の仲間と鳥取砂丘を訪れた時に、立派な洋館があるという案内で見学し、建物内部にも入ったこと

があります。綺麗な建物に感動したことをお思いだしますが、まわりの石垣などが城跡であったことなども覚えて

いません。

 今回 仁風館の建物を見て、来たことあるのを思い出したわけです。

 戦国時代、山名氏が鳥取の久松山の地形を利用した山城として築城され、家臣の武田高信因幡守護・山名豊数

倒し、下剋上を果たし、豊数の弟・山名豊国と度々対立します。1573年豊国が山中幸盛(尼子残党)と武田高信を追

い出したのち殺害。

鳥取城を山名氏の本城としますが、吉川元春(毛利元春)に攻められ降伏、毛利豊元が城主となるも1574年に再び尼子

残党に攻められるが毛利氏の力が強くなると山名豊国で城主が落ち着きます。

1580年織田信長の指示で羽柴秀吉第一次鳥取城攻めで3ヶ月の籠城戦を和議により信長に降伏し、従うことになり

ますが、毛利氏が来訪すると再び毛利氏に降伏、何人かの城将が入れ替わったあとに毛利氏の重臣、吉川経家(吉川家

分家筋、吉川元春は経家のいとこであるが毛利から吉川本家の養子となっている)が城主として入ることになります。

ここで、秀吉は第二次鳥取城攻めを行います。毛利勢の兵糧搬入を阻止し、付近の農民2000人以上を城に追いやり、

侍と合わせて4000人がいるうえで、城には一か月分の兵糧もなかったと伝えられています。

4ケ月の籠城戦となり城内の家畜、植物は食い尽くされ飢餓者が続出、人肉を食う者まで現れ、経家はその悲惨な

状況に(秀吉は経家と連れてきた兵を連れて帰れば山名家臣の自害でよしとしていたが)自分の責任だとして、

吉川元春に鳥取城の守備するよう命令された時から自ら首桶を用意し覚悟しており、自決を引換に開城しました。

(鳥取城渇え殺し)

秀吉の力となった宮部継潤が城代とし入り、豊臣政権九州征伐の功により正式に因幡・但馬の5万石を与えられ

ました。関ケ原の戦いで、西軍についたため開城、池田長吉が関ケ原の功により6万石で入封、山麓に近世城郭

改修します。

1617年池田光政因幡・伯耆32万の大大名で入封城も拡張、城下町も整備されました。その後、池田氏同志

岡山藩と所領の交換が行われ池田光仲が入封し明治維新まで12続きます。他のお城同様、廃城令により建物

は取り壊されます。

                      (中仕切門)

唯一のたっている中仕切門は当時のものが昭和50年の台風により倒壊し同年に再建されたものです。

建物以外には多くの石垣が残っており修繕もされているが、他の城にはない天球丸巻石垣があります。

今回、わざわざ紀伊半島から山陰側にまわってでも、鳥取城に来て見たかった日本唯一の球形の城の石垣がある

のです。

まず天球院丸は、池田長吉の姉で山崎家盛に嫁いでいた天球院が離縁後に住んでいました。

天球院住んでいるから天球丸で、その石垣も球形なのか。石垣のはらみ(石垣が土圧で外側にはらむ)を防ぐため、

球形の巻石垣で補強されたことが明らかになっていますが、わざわざ球形にするとは非常に面白いところなのです。

訪れた時は、早朝の人の少ないその巻石垣と天球丸全体を撮影しているのか、ドローンが飛ばされていました。

 2005年に鳥取城は復元事業として30年かけ幕末期の姿へ復元する基本計画が策定され、ちょうど訪れた時は

大手門の工事がされており、大手門まわりの足場のシートには大手門のイラストが描かれ、工事中でも楽しく見て

まわることができます。

 工事の完了が楽しみです。


 それでは、鳥取市まで来ているので倉吉白壁土蔵群の見学とネットで出ていた20世紀梨の新品種を購入して帰る

ことにします。



 施工 山本


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