スタッフブログ

施工山本の城巡り~米子城~

施工山本の城巡り~米子城~

記事掲載日:

 城巡り~米子城~

 8月14日、米子城を散策します。

 1562年頃毛利氏尼子氏攻略後、尼子氏再興の旗揚げに参加した飯山にあった米子城の山名之玄は毛利方の吉川

(毛利)元春に攻められ落城、その後、1591年に東出雲、隠岐、西伯耆を領し吉川広家が城主となり、中海に望む

湊山(標高90メートル)の地に築城しはじめました。

 吉川広家毛利元就の次男、元春の三男ですが吉川家の家督を継ぎました。米子城築城途中に関ケ原の戦いがあり、

東軍徳川方勝利を確信していた広家は毛利輝元に東軍につくよう説得しますが、西軍の総大将になることを呑んで

しまいます。

 広家は、西軍が負けた時に毛利氏が徳川に滅ぼされると考え東軍徳川方に内通し、広家がはじめ西軍につくが動かず、

途中から寝返り東軍につくこと毛利家存続と領地もそのままにすることを取り付け、関ケ原でなかなか動かず時間

稼ぎをし、小早川秀秋の寝返りで西軍は総崩れとなります。その結果、米子城の完成を見ずに、広家は岩国に転封、

岩国城主となります。

その後、やはり東軍徳川方についた中村一忠伯耆一国17万5000石で入封、米子藩主となります。建設途中の城の

工事を続けます。

 湊山頂上にはすでに吉川広家が建てていた四重天守の横に独立式望楼型四重五階天守(大天守)を建て本丸とし、

北の中海側に飛び出た尾根に内膳丸、東隣の飯山には出丸、さらに山麓にかけての二の丸には領主の館を・三の丸

には作事場、米蔵、馬小屋などを配し、周囲は中海の海水を引き入れた二重のをめぐらした山陰で最初に築かれた

近世初期の城郭山陰一の名城と呼ばれました。中村一忠は完成後米子城に入ります。

その後、一忠の急死により中村氏が断絶、加藤氏が入るものの米子藩は廃藩となり鳥取藩としての支城となり、池田氏

とその家老荒尾家が城主をつとめ明治維新に至るまでつづいていきました。明治の始めには、わずかな値段で売り払わ

れ解体、解体された木材は風呂屋に薪として売られたと伝わっているそうです。

今残るのは石垣のみの城あと、天守あとでは360度の大パノラマはすばらしく米子市内大山、中国山地、中海が望

まれ、晴れた日には隠岐島まで見渡せるとか。隠岐島が見えるなら、それより近い中海を挟んだ松江城が見えないか

探してみましたが、わかりません。

(ネットでも松江城が見える話はのってないので、もともと見えないのかもしれません。)


                    (本丸跡から中海側の展望)


湊山に建つお城の『双頭天守』は城下町側からも、シンボルとして輝いていたことでしょう。

今は湊山公園の建物は残っていません。


                   (中央に見えるのは大山でしょうか)


しかし米子自動車道米子ICを大山側から米子市街地に降りると前方に大きなお城が見えてきます、栃もちや和菓子の

製造工程の展示とその販売のほか、鳥取、米子の海産物、果物名物の展示販売がされている施設の外観が白い壁以外

(当時の天守は松江城のように壁が黒色の下見板貼だったようです。) 当時の米子城天守にかなり似せて建てられている

そうです。なかなかかっこいい建物で、大山登山やスキー、境港散策の折には必ず立ち寄る建物です。



青空背景の白い天守はよく映えます。


 施工 山本


 城巡りシリーズ