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施工山本の城巡り ~萩城・周防山口城~

施工山本の城巡り ~萩城・周防山口城~

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 城巡り~萩城~

 8月8日、今回は山口県萩市にある萩城(別名:指月城)を散策します。40年以上前に小学校修学旅行で、近くの

青海島や秋吉台、秋芳洞、松下村塾には来たことがありますが、萩城をおとずれるのは、はじめてとなります。

 毛利輝元は1591年工事途中の広島城に入城し、1599年に全工事を完成させますが、関ケ原の戦い(1600年)で

西軍の総大将に担ぎ出され敗北。 諸説ある話ですが、吉川広家が東軍に内通し毛利家存続と領地もそのままに

することを取りつけ、戦いで動かなかったことで、徳川家康は広家の願いをいくつか聞き入れ、毛利家を滅ぼさず

周防国・長門国の二ヵ国に減封としました。

 輝元は完成した広島城にはほんの1年間だけいただけで広島城を失うことになったのです。

輝元は幼少の毛利秀就に家督を譲り、後見役として萩、山口、三田尻の3か所を候補に幕府へ築城の許可を求め

(周防国、長門国全体への統制のとりにくい)僻地の萩の地が良いと回答があり萩城の築城が始まり、1608年

落成します。

                  (萩城天守台、)


指月山の山城とふもとの本丸、二の丸、三の丸の平城であり海に突き出ているため海城の面も含み構成され、

分類しにくいお城です。

 天守は5層5階で外壁は総白漆喰で窓は銅板を貼った突き上げ戸で建てられていましたが、城下からは望むこ

とはできなかったようです。

1768年には修理で赤瓦に葺き替えられたようです。赤瓦がどういう赤色かわかりませんが、赤瓦で有名な

会津若松城(鶴ヶ城)を連想します。

250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であった萩城も明治になってからの廃城令により櫓や天守は取り壊され

残っていません。

                    (志都岐山神社)


その後、城内に志都岐山神社が建てられ、藩主別邸であった茶室(花江茶亭)も移設され、現在、土塀や門が

一部復元されていますが、城自体を構成する櫓がなくさびしい感じです。 

                       (花江茶亭)


                     (厚狭毛利家萩屋敷長屋)


城下町には厚狭毛利家萩屋敷長屋など古い建物や町並み、幕末の志士の生家(高杉晋作生地、木戸孝允旧宅など

があるだけに城の建物を充実させたほうが観光の面からも城好きとしてはうれしいのですが、どちらかというと

城郭のなかまで萩焼きの窯があるようで、城より萩焼押しの感じがしました。

                


 城巡り~周防国 山口城~

 1864年13代毛利敬親幕末の変動により有事に備え、瀬戸内側、下関への指揮しやすい山口山口城を築城、

本拠地を萩から山口に移します。(山口移鎮)

 同年の第一次長州征伐 (禁門の変での天皇の住まいに銃を向けたという朝廷の敵として幕府が長州に兵を

送った)での幕府撤兵の条件として山口城を潰すことだったため、外国艦隊の攻撃の打撃もあったため降伏し、

謝罪と家老の切腹と長州藩は城の一部を壊して一時は萩城に戻りますが長州藩論高杉晋作らによる倒幕派論

が強くなり、翌年に再び山口に移り、政治、軍事の拠点となります。

その後、幕府との交渉が打ち切られ、第二次長州征伐に進んでいきますが、薩摩藩の長州藩への支援(薩長同盟)

などにより幕府軍は敗戦を重ね将軍家茂の死去を理由に長州征伐を撤退したため、幕府の権威は失墜していく

ことになりました。

関ケ原の戦い前後の毛利の思いが代々引き継がれ、この頃から明治まで爆発していったと思うのは私だけでしょ

うか。

                      (山口城表門)

山口城は天守のない平城でしたが、残る絵図によると、大砲を備えた西洋式城郭(八角の稜堡式城郭)の特徴

(簡単に説明するなら函館の五稜郭)をもち、周囲には堀と石垣が築かれ、萩城御殿が解体移築されていた

ようです。山口城は明治の廃城令により他の城と同様、廃城になり、現在山口城表門が残っています。


施工 山本


城巡りシリーズ