施工山本の城巡り~明石城~

記事掲載日:
城巡り~明石城~
7月5日赤穂城散策のあと明石城にいくことにしました。車で1時間20分ほどJR明石駅の北側にあります。
明石城は公園になっており、陸上競技場、野球場があり、明石市民の憩いの場になっているようで、きれいに
刈られた芝には人が寝ころび、ゆったりとくつろいでいる家族も何組かいました。
1615年に大坂夏の陣で豊臣を倒し、大坂城を掌握した徳川幕府は大坂より西の外様大名に対して不安があり、抑えの
ため古来より交通の要所であった明石を姫路城のある姫路とともに重要視しました。
1617年に明石藩を創設、織田信長と徳川家康を曾祖父にもつ大坂の陣で活躍した小笠原忠政(のちの忠真)が初代藩主
となり明石川河口西岸にあった船上城へ入城します。
将軍徳川秀忠の築城命令により一国一城令で廃された城を転用するとともに幕府からの援助を得て1619年に
明石城が建てられます。縄張りなどを義父の姫路藩主の本多忠政が指導しており、白漆喰のお城は姫路城を連想
させます。
(伏見城から移築された坤櫓)
1632年、苦心して築城した小笠原忠政は豊前小倉藩に転封になり、信濃松本藩より戸田松平氏が入城します。
その後、大久保氏、藤井松平氏、本多氏、越前松平氏と城主が変わり明治維新となります。
現在残っている本丸の巽櫓(たつみやぐら)は船上城から、坤櫓(ひつじさるやぐら)は京都伏見城から移築
されています。
京都伏見城天守は二条城に移設改造され、櫓では福山城の伏見櫓や月見櫓、江戸城の伏見櫓などに移されていますが、
伏見城から二条城の移設は近いのでわかりますが、明石城までとなると遠く。福山城や江戸城になると気が遠くなる
距離だと思います。お城の建物の材料や、木組みやそれを刻む技術が長い距離を運搬する費用よりも価値があったとか、
伏見城の建物という価値(江戸時代初期、伏見で家康、秀忠、家光が将軍宣下を受け伏見幕府ともいわれた伏見城)が
重要だったのかもしれません。
本丸坤櫓(ひつじさるやぐら)の北側には天守台が作られており、この天守台には当時中津城天守を大分から運んで
移築する計画があったようですが、天守台には天守が建てられることはありませんでした。
1995年の阪神・淡路大震災では本丸南側の高い石垣はかなりの被害をうけましたが全面修復され、この時、
巽櫓(たつみやぐら)を曳家(ひきや)工法で櫓の下に鋼材を入れ櫓ごと持ち上げ移動して、石垣修復後もとの
位置にもどしました。
現在修復中の弘前城の天守石垣の修復もこの工法で進められています。
本丸南側の高い石垣の両側の巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)の両櫓をつなぐ白壁塀はこの時
復元されたそうで、非常に美しく、この白壁塀を含む高い石垣はイベントでイルミネーションライトアップの
スクリーンにもなっているようです。
兵庫県は有名なお城も多いし、お城愛もすごいです。イベントが上手に企画されているからだと思います。
それでは、3時間半かけて広島に帰ります。
施工 山本