施工山本の城巡り~久留米城~

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前回に続き、新規でお城巡りしていないのですでにまわっている城巡りの中から紹介していきます。
3月20日に『九州 弾丸!のお城巡り』6城まわっています。
中津城→小倉城→福岡城→久留米城(福岡久留米)→?
城巡り~久留米城~
福岡城から久留米城もナビでよると高速道に乗れば1時間くらいで着く予定でしたが高速道渋滞の
ため2時間以上かかり到着しました。
久留米城は明治時代の廃城令により明治初頭には建物は撤去され石垣のみとなり、現在は本丸に篠山神社と
有馬記念館が建てられ、本丸以外は工場や市街地となっています。
この地には室町時代から豪族の砦があったとされ、その後、豊後国の大友氏と下剋上によりへ肥前の熊と異名を
とった肥前国の龍造寺隆信の勢力が争い度々城主が入れ替わります。
1587年豊臣秀吉が九州を平定すると毛利秀包が筑後久留米に13万石で封じられ、堀を作り石垣を積み上げて天守を
置き、立派な城郭へ大改築していきました。
当時の建物は残っておらず、石垣のみのこのお城にあえて訪れたのは、この毛利秀包のお城だったからです。
毛利秀包は毛利元就の九男で、生まれた時には毛利氏本家の長男の隆元は亡くなっており、毛利家は甥の輝元
(隆元の子・当時14歳)が継いでいました。その後、元就三男の小早川隆景の養子になります。
本能寺の変前後の毛利和睦の証として1583年秀吉のもとに吉川広家(のちの岩国城城主)とともに送られ、
秀の字の入った秀包の名前はこの時に改名しています。
(秀包は秀吉に気にいれられたのに対し、吉川広家は翌年帰されます。)
秀包は秀吉の下で戦功を上げていき、九州征伐では養父小早川隆景に従い大活躍します。
その後、久留米城の城主となります。このころは、小早川の跡取りとして間違いなかったのかもしれません。
1593年豊臣秀吉に実子、秀頼が生まれます。秀吉はそれまでに迎えていた養子たちの存在が邪魔になったよう
です。
養子の一人、羽柴秀俊(小早川秀秋)を当時まだ跡取りがいなかった毛利氏当主・輝元の養子にどうかとの打診
されたのに対し、毛利に縁もゆかりもない者に本家を乗っ取られると思った小早川隆景は実子のいない自分が
もらい受けると返事したことから、秀包と小早川家の運命がくるっていきます。これにより秀包は廃嫡されること
になり、秀秋が嫡子となるのです。
岡山城の時に紹介していますが、あの小早川秀秋が来なければ、関ケ原の戦いの小早川秀秋の裏切りもなく、
毛利家の関ケ原の戦い以後の立場がまったく違うことになっていたのかもしれません。関ケ原の戦いの時には
隆景は亡くなっており小早川本家は秀秋の支配下でした。、分家の秀包は違う隊で前哨戦の大津城で戦い勝利
しますが、本戦で秀秋の裏切りによって形成が逆転し西軍が負けることになります。裏切りの報を聞いた時、
親族の吉川広家までも徳川に内通しており裏切られたことも含め、秀包は何にぶつけていいのかたまらない
くらいの悔しい気持ちがあったと思います。
その後、小早川姓をきらい、毛利姓にもどしてしまうのです。関ケ原の戦い前後の面白いところですが、
小早川秀秋の立場、吉川広家の立場、毛利秀包の立場で考えると、それぞれのその時の気持ちも想像でき、
どれが正解だったのかは判断が難しいところなのです。
柳川城(福岡県柳川市)を居城とし久留米城が支城となります。田中氏は2代で跡継ぎがなく、変わって有馬豊氏が
21万石で封じられ、大規模な城に拡張しました。 以後明治維新まで久留米は有馬氏の居城となります。
桜の時期の手前での散策でしたが、早咲きの桜が咲いていましたので載せておきます。
次は熊本県にある熊本城に向かいます。熊本地震からの熊本城復旧工事がどこまで進んでいるか楽しみです。
施工 山本