施工山本の城巡り~福岡城~

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前回につづき、は新規でお城巡りしていないのですでにまわっている城巡りの中から紹介していきます。
四国につづき 3月20日に『九州 弾丸!お城巡り』6城まわっています。
中津城(大分)→小倉城(福岡北九州)→福岡城(福岡)→?
城巡り~福岡城~
小倉城から福岡城も高速に乗れば1時間あまりでつきます。
福岡城の近くにはグループ会社の支店があり、福岡にはたまに訪れますが福岡城は初めてです。
豊前中津16万石の黒田長政は関ケ原の戦いで豊臣恩顧の大名でしたが東軍の徳川側につき戦功を上げ、筑前52万3千石
の大大名となり隠居した父 黒田官兵衛(如水)とともに筑前の名島城に入りますが、手狭であったため1601年福岡城の
築城に着手。7年かかり近世大城郭を完成させます。
この地は隣接する博多に対し福崎と呼ばれていましたが黒田官兵衛の故郷、備前(岡山)福岡の地名をとり福岡と改名
します。 川を挟み東が商人の町 博多に対し西側が武家の町 福岡として発展していきます。
黒田氏は長政以後12代続き明治維新を迎えます。
関ケ原の戦い以後、江戸時代 黒田氏のみの居城で変わらないようなお城も珍しいことのようです。
城跡には現存櫓や移築された櫓や城門、復元された櫓や城門が点在しています。
・ (福岡城あとに移築された旧母里太兵衛邸長屋門)
※母里太兵衛ー黒田24騎(黒田家臣の精鋭)の1人で福島正則からこの量のお酒を飲みほせば何でも聞くぞという話
から名槍「日本号」を飲み取ったという。この時のことが民謡 黒田節で『酒は飲め飲め 飲むならば、日の本一
のこの槍を~ 』と語り継がれています。
天守は1646年に福岡城を描いた最古の『福博惣絵図』に描かれていないため、幕府への配慮からはじめから天守は
建てられなかったというのが通説でしたが、大天守、中天守、小天守の連立天守があったであろうしっかりとした
天守台があり、柱を建てた礎石も並んでいること、天守台周辺の発掘調査から瓦の出土もあり、諸説ありますが天守が
あったことは確実ではないかという説明も多いようです。小倉城主の細川忠興が嫡子細川忠利に宛てた1620年の手紙に
「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊す」と語った記述が発見され、天守あった可能性が高くなっているのかもしれ
ません。
(福岡城天守台)
また大坂城普請に諸大名が駆り出されていたことから 解体した天守の資材を築城の資材として差し出すことで
徳川の信任を得ようとしたのではないかという話もあり、外様大名の黒田氏としては徳川の信任を得て比較的早い
時期から友好関係を保つことで一族を存続させ 江戸時代 黒田氏のみで福岡藩を維持できたのかもしれません。
※外様大名―関ケ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名。
天守台からは眺めがよく福岡ドームが見え、天守台がある本丸には細かく分かれ張った枝ぶりの木がいっぱいです。
そうです、福岡城も桜の城なのです、おとずれた時はまだまだ開花にも程遠く枯れた葉っぱさえすべて落ちて
いる状態で桜の城は見れませんでした。
陸上トラック、テニスコート、グランドもあり、普段から福岡の人がよく訪れる身近な公園なのだと思いますが、
桜の季節は特別のようです。
・ (多聞櫓と隅櫓)
本丸全体に桜や梅が植えられており、広島城の形でなく津山城あたりの桜の植え方に思えます。満開の時期には桜
だらけという感じになり花見客が多いのではないかと想像します。ぜひ来年の桜の満開時期に訪れたいと思います。
次は同じ福岡県の久留米にある久留米城に向かいます。
施工 山本