施工山本の城巡り~高松城(讃岐国)~

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城巡り~高松城(讃岐国)~
3/8(日) 昼前までに菜園の作業が終わり、昼から時間が空いたので、四国一周城巡りの時に丸亀城
(香川県)で陽が暮れてしまいいけなかった 同じ香川県にある高松市の高松城(讃岐国)を散策します。
広島から高速道を使えば3時間かからないので夕方には戻れる距離です。
高松城と言えば、本能寺の変の時に豊臣秀吉が、信長自害の連絡で光秀を討つため中国大返しで京へもどっ
ていく水攻めしていた高松城も有名ですが、 その城は岡山県岡山市にあり(岡山城の西15km)
備中高松城と呼ばれ 讃岐・高松城と区別されます。
讃岐・高松城跡の玉藻公園はことでん(高松琴平電気鉄道)高松築港駅が隣接しています。
高松城は1587年に秀吉から讃岐を与えられた生駒親正(いこま ちかまさ)が着手した平城です。
瀬戸内海の海水を外堀、内堀に海水を引き込んだ水城は日本三大水城のひとつといわれています。
※日本三大水城―中津城(大分県)、今治城(愛媛県)、高松城(香川県)
(旭橋から旭門)
生駒氏は4代(54年間)続きますが、1640年御家騒動で出羽の国(でわのくに:秋田県)に移封となり、
1642年常陸国(ひたちのくに:茨城県)下館藩主だった徳川家康の孫の松平頼重〔家康の11男、水戸藩祖
徳川頼房の長男で光圀(水戸の黄門様)の兄〕が東讃岐12万石で入封となります。光圀が水戸徳川家を継ぐ
ことになり、兄を差し置いたことを悔やんで、光圀は自分の跡取りに頼重の子を迎えて水戸藩主としました。
頼重も光圀の子の頼常を高松藩主としています。
以後、明治維新まで養子縁組を繰り返し、松平11代228年続きます。
(積み直された天守台)
天守は生駒氏時代では3重の天守だったとされますが、松平氏時代に3重5階の南蛮造りで四国最大の規模を
ほこっており、明治3年の廃城令はまぬがれたようですが、明治17年老朽化のため取り壊されました。
昭和30年に高松城跡が玉藻公園として一般開放されてから天守復元が市民の願いとなっているそうで、現在、
天守台石垣の積み直しまでが終了しています。
(月見櫓、水手御門、渡櫓)
現在残っている城内の建物の月見櫓は松平氏が入封後、海面を埋立てし建てられました。渡櫓は生駒氏
築城による海手門を改修して建てられたものです。当時、櫓の外は海であり、船から水手御門を通って城に
入れるようになっており、水手御門まわりを月見櫓より監視していたのでしょう。
(旭門入り四方囲まれた桝形より艮櫓)
艮(うしとら)櫓は東の丸にあったもので月見櫓と同時期に建てられたとされてますが昭和42年に現在の
位置である旧太鼓櫓跡に移築されたものです。
(旭橋から外堀越しの艮櫓)
三の丸に松平氏時代には披雲閣と呼ばれる現在の2倍の大きさの御殿がありましたが明治時代、老朽化の
ため取り壊され、 現在の披雲閣は大正時代に松平家高松別邸として建てられ、枯れ山水の内苑御庭も
つくられています。
ネットでは堀を探すと鯛が泳いでいるそうなので、探して見ましたが偏光眼鏡もなく水面がキラキラして
水の中までは覗けず見つけることができません。堀には船も出してもらえて餌やりもできるようで、餌やり
体験をすれば鯛を確実に見ることが出来たのかもしれません。
月見櫓の近くには松平初代藩主松平頼重が城下の人々に時を知らせる設けた鐘楼が移設されてます。
施工 山本