施工山本の城巡り~岩国城~

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城巡り~岩国城~
2月23日(日) 山口県岩国市にある岩国城に向かいます。35年前に来たことがあります。
錦帯橋越しの岩国城の画像を撮るため錦帯橋駐車場に車を止め撮影しながら城に向かいますが錦帯橋が修繕工事中で
工事用の仮設材が写り込んでいるのは残念です。
(錦帯橋からの岩国城)
錦帯橋を渡った辺りは以前には崩れた古い土壁塀や建物があったのを覚えています、現在は整備され観光化され綺麗に
なった町並みを抜けて行きます。
岩国城は山城であり蛇行した錦川に囲まれ、天然の要害の地であったであろう横山の頂上にあります。
ロープウェイを使い山の上へ登り、歩いていくと天守が見えてきます。
岩国城は吉川広家が築城しますが幕府の一国一城令により、僅か7年で取り壊されました。
現在の天守は1962年(昭和37年)に鉄筋コンクリートで作られた復興天守です。建てられた天守位置も築城時の位置から
市内を眺望できる50mほど錦帯橋側に近い位置に建てられ、錦帯橋付近からも錦帯橋越しに山頂の岩国城が見えるかたち
になっています。
(手前、築城時の天守石垣、奥に復興天守が見えます)
天守からは錦川の蛇行した姿の向こうに岩国錦空港や瀬戸内海の島々も見え素晴らしい眺めです。
天候がよければ四国が一望できるそうです。(瀬戸内海はわかりますが島はどの島かわかりません。)
復興天守の形は「天守構造図」という絵図を参考に外観再現の鉄筋コンクリート造で四重6階です。
3階より4階、5階より6階が下階より張り出す形式の桃山風の南蛮造りは「唐造(からつくり)」と呼ばれます。
諸説ありますが、屋根を省略して四重で報告することで、幕府による城郭規制に対応する目的があったのではという
ことでした。
規制に対して苦労して練った上で建てた天守も7年で取り壊されなければならなかった思いを想像するとたまりません。
築城した吉川(きっかわ)広家は毛利元就の次男、毛利元春の三男ですが元春と兄が相次いで死去したため吉川家の家督
を継ぎました。 諸説ありますが関ケ原の戦いの時に東軍勝利を確信していた広家は毛利輝元に東軍につくよう説得しま
すが、西軍の総大将になることを呑んでしまいます。
広家は、西軍が負けた時に毛利家が徳川に滅ぼされると考え徳川側に内通し、広家がはじめは西軍につくが途中から
寝返り東軍につくこと、毛利家存続と領地もそのままにすることを取り付け、関ケ原でなかなか動かず時間稼ぎをし、
前回の岡山城のブログでものせた小早川秀秋の寝返りで西軍は総崩れとなったところで、広家は東軍に移ります。
家康は広家の願いを聞き、ふつう滅ばされるのであろう負けた西軍の総大将の輝元の毛利家は滅ぼされず、領地は減ら
されたものの存続できることになったのです。
しかし、広家は、徳川からは岩国への築城を許され、優遇ぶりも顕著でしたが、毛利本家からは(広家が関ケ原の時に
とった行動が毛利家中で評価が悪かった。)冷遇され、微妙な関係だったようです。
これも諸説ありますが、幕府の一国一城令がだされたときにも周防国には岩国城のみが存在していたため壊す必要は
なかったはずですが、長府藩の毛利秀元(元就の四男の次男)の居城の櫛崎城を壊さなければならなかったため、
立場上、気を使って壊したのではという話もありました。
関ヶ原の前後、どちらにつくかで家の存続が変わるため、内通したり、寝返ったり、また その判断で江戸時代での
立場が変わっていく、非常に面白いところなんです
安土桃山時代は面白いとこ満載です。
施工 山本