スタッフブログ

施工山本の城巡り~岡山城~

施工山本の城巡り~岡山城~

記事掲載日:

今回のお城巡りは岡山県をまわっています。

城巡り~岡山城~

2/11午前中 津山城を散策。岡山道を通って岡山市岡山城へ

岡山城は岡山ICから20分、岡山駅の徒歩圏内にあります。

下剋上で戦国大名となった宇喜多 直家の息子、宇喜多 秀家(豊臣秀吉の養子となって豊臣の政権下の五大老の一人)

が秀吉の指導を受けて築城、途中、秀吉の朝鮮半島進攻の総大将として出陣し中断しますが、8年の歳月を費やし

1597年に完成しました。

城は東側の旭川を改修して天然の外堀にし、天守は旭川を背にギリギリに建っています。

城郭は西に向かって広がり、何重にも堀が設けられて、西側の敵(毛利氏)に対して西向きに構えた形となって

います。

東には味方(秀吉)がいるのでそういう形になったのではということでした。

天守の壁には松本城同様に関ヶ原の戦い以前の古いお城の形式の黒漆塗りの下見板が貼られた外観は黒く『烏城』

といわれるようになります。

時代が下り建てられた白漆喰の姫路城の『白鷺城』と対比されることも多いようです。

関ヶ原の戦いで西軍についた宇喜多 秀家は敗れて流罪になります。

秀吉の親族でありながら東軍に寝返り戦功をあげた小早川 秀秋(秀吉の正室の北政所の甥、秀吉の養子になり

秀次に次ぐ後継者とされますが、秀吉と茶々の間の実子の秀頼誕生により後継者候補からはずれ、毛利元就の三男、

小早川 隆景と養子縁組させられ小早川 秀秋となります。

秀頼が誕生するまで関白の職を譲られ家督を相続していた兄の秀次は『秀次謀反』を言い立てられ、出家させられ

たあと切腹になり三条河原に首がさらされ、妻子も殺されます。

諸説ありますが、この時の秀秋の心の動きを想像すると関ヶ原での寝返りも勝手に納得してしまいます。

(城好きから歴史好きになっていますが関ヶ原の戦いの面白いところです。)

関ヶ原で徳川側に寝返り武功を上げた小早川 秀秋が52万石で岡山藩城主となります。

しかし2年後の1602年急死し後継ぎがなく小早川家は断絶してしまいます。

その後、池田 輝政の次男、池田 忠継が28万石で入封し、3代目の池田 光伸が幼少だったため鳥取へ転封、鳥取藩

から池田光政が入封し10代つづき明治維新となります。

明治6年の廃条令により順次建物が取り壊されていき昭和初期までには本丸に残るのみとなっていました。

                         (月見櫓)

戦前、国宝であった天守は1964年岡山大空襲で焼失、唯一残ったのが月見櫓で国の重要文化財となっています。

現在の天守は1966年市民の長年の要望から鉄筋コンクリート造の外観復元で再建された復元天守です。

天守はふつう、四角形の平面やその組み合わせですが、岡山城天守は一層目が不等辺五角形です。

わざわざ石垣を天守が不等辺になるように積み上げる必要があったのか、また石垣が地形的なもので仕方な

かったのなら城郭が反対側に広く広がっているのだから法面から控えて建ててもよかったのではとか考えて

しまいます。

一般の木造住宅でも基本四角形の平面の間取りを敷地の形状から一部分を斜めに切り取ったようなことはよく

ありますが、当時の木組みがどうだったかわかりませんが、木造の建物の構造を考えると上階の下に多角形の

間取りの構造がくると木組みも荷重配分も難しくなり、屋根の形と雨じまいを考えると難しくなることをあえ

てやっているのです。

                       (天守模型を上から見たところ)

織田信長安土城の天守も一層目が不等辺多角形だったことから安土城を模したのではということも言われてい

ます。

築城に際し秀吉の指導を受けていること、宇喜多 秀家の正室が前田 利家の娘、豪姫であることも考えると安土城

の天守の姿を見ていた人たちがまわりにたくさんいたということで、その話も本当かもしれません。

外観、正面からみた二層目の左右の入母屋破風の向きを比べると左側が少し斜め手前に向いており、大工の棟梁

が腕をみせるため『こんな難しいこともできちゃうよ』といっているようにしか思えないのは、木造住宅建築に

携わっているからでしょうか。

屋根には金の鯱がいっぱいです、これは秀吉の趣味かもしれませんね。

天守内部は博物館になっていて、通常のお城の展示と同じように武具や書状の展示も行われていますが、立体的に

見える戦う城の展示や戦国武将ブームの武将押しの展示もあり非常に工夫されて面白いです。

そろそろ桜の季節がやってきます。満開の桜のお城を散策は最高のはずです。

どの城行こうか迷います。


施工 山本

次のブログ 城巡りシリーズ 前回ブログ