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施工山本の城巡り~伏見城~

施工山本の城巡り~伏見城~

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城巡り~伏見城~

11月16日前日から広島出発して京都伏見にある伏見城を目指し、
7:00から駐車場が入れるとのことでしたが6:30には駐車場に入れました。

早朝ランナーが普通に城内を走っていたので勝手に散策開始です。

伏見城は天守、小天守、大手門が他の城にはない
シックなベンガラ風の赤い色合いが豪華さをさらに引き立ており絵になるお城です。

歴史上ではよく出てくる伏見城ですが、現在の天守が模擬天守のため
歴史上の伏見城を説明する画像としては使われることが少ないようです。
※模擬天守-確かにそこに城はあるけれど、史実では天守がなかったはずなのに建ててしまった、
 あるいは天守が存在したけれど、実際の天守とは全く違うものを建ててしまったもの。

伏見城は豊臣、徳川の時代、伏見の地域の中で建て替わっており、
それぞれ伏見城の前後に別の名を並べて区別されています。

豊臣秀吉が聚楽第から移るための隠居屋敷として
伏見指月につくらせた初代のお城が『指月伏見城』。

ですが築城後間もなく伏見地震(直下型地震)によりわずか2年で倒壊。
火災がなく櫓などの木材の多くが再利用され、
北側(現在の明治天皇陵)にすごいスピードで再建し
この伏見城を『木幡山伏見城』としています。

秀吉は指月、木幡山で5年間を過ごし、1598年没しています。
豊臣秀頼も伏見に住んでいた家臣も大坂城に移り、
もぬけの殻になっていたところへ
江戸に移っていた豊臣五大老であった家康が秀吉傘下の家臣や武将を取込み、
留守居役として入城します。

1600年に『関ヶ原の戦い』の前哨戦の『伏見城の戦い』が起こります。
留守をしていた家康の家臣である鳥居元忠が守る伏見城は
西軍に攻められ炎上し落城しました。

西軍は徳川打倒で勢いずきますが2か月後の『関ヶ原の戦い』では
徳川家康が勝利して豊臣の世は終わりをつげます。

勝利した家康が藤堂高虎に命じ復旧、1602年本丸が完成します。

家康は征夷大将軍就任後、江戸城と伏見城を行き来していますが、
在城期間累計では伏見城のほうが多くいたかもしれません。

江戸幕府初期では伏見幕府と言ってもいいくらい重要なお城でした。

家光の伏見城で征夷大将軍の就任式を最後に一国一城令により廃城となり、
天守は二条城へ、また多くの建物の部材も淀城、
福山城などに移築されているようです。

城跡には桃の木が植えられ桃山と呼ばれるようになり
明治以降につけられた『桃山時代』『桃山文化』といわれる言葉も、
この桃山からきているようです。

廃城になったはずのお城が、今なぜここにあるのか。

現在の伏見城『伏見桃山城』は
昭和39年伏見桃山キャッスルランドという遊園地としてオープン、
平成15年まで開園していたシンボルとして鉄筋コンクリートで建てられたものです。
大手門の建物が遊園地のチケット販売と改札であったであろう感じがします。
ジェットコースターなどの遊具やプールや釣堀もあったそうです。

広島城跡でも戦後、スポーツ博で2代目の模擬天守(現在は3代目天守)がシンボルとして建てられ、天守前からのジェットコースターがつくられていたように、
人が集まれる街中の広い敷地と交通便を考えると広い城跡などが候補にあがっていったのかもしれません。

閉園後は京都市によって伏見桃山運動公園と整備され残された模擬天守です。
名古屋城同様に耐震強度の問題で建物内への立入は禁止されています。

清州城や松本城の一部、天守最上階や櫓の手摺が赤というのは有名な天守でもありますが、
首里城ほどではないですがお城全体が赤いのは初めてです。映えますが派手です。

遊園地のお城なので千葉にある大規模遊園地のシンボルのお城、シン〇〇ラ城の日本版と考えれば、こういった目立つシンボル天守ということになるのかと無理やり納得です。

映画撮影に使われるため、修繕・化粧工事などもあり、
他の城にはない豪華さと色合がすばらしいのもそのためなのかもしれませんね。
模擬天守のため、なかなかテレビなどでの映像はみられませんし、
お城観光の書籍にもとりあげられませんが、
今後、耐震や劣化問題により、修繕や解体の話がでてくると思います。
解体に進んだ時のためにも一回見ておくべきだと思います。

それでは、伏見城天守を移築したといわれる(天守は残ってはいませんが)
二条城に向いたいと思います。この二条城がすごいです!


施工 山本

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