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広島城を訪れました

広島城を訪れました

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広島城

今回は広島城を散策します。

今年は広島藩初代藩主浅野長晟が1619年広島に入城してから400年を迎える年です。
城周辺ではいろいろイベントなどが企画されているため、
今年中に紹介しとかなければいけないと、10/6(日)広島城を訪れました。

小学生までは祖母に連れられ、毎年8/6の平和記念式典のあと
広島護国神社をまわって広島城へ行くのが決まりになっていましたが、
40年以上ぶりに訪れました。

その頃は二の丸の建物はなかったと記憶しています。
平成になってから表御門、櫓の復元がされたと思います。

復元されてすぐは新しい桁や柱などの構造材が新築の白木の色で
古い城には似合わないなと堀沿い道路を車走らせながら見ていましたが
25年以上もたてば構造材もいい色に変わっていい感じで城になじんでいます。

広島城は郡山城(安芸高田市)を居城とする
領主だった毛利氏が元就の時代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長していき
輝元の時代に秀吉の大坂城、聚楽第を見て
城下町と一体化した政治経済の中心地として機能する城郭の必要性を感じ
太田川の三角州に1589年着手、
急ピッチに築城は進められ輝元は1591年に入城しています。

1600年落成したとされていますが、
その翌年関ケ原の戦いに敗れ西軍の総大将であった輝元は
徳川家康によって長門へ転封となりました。

そのあと、秀吉の親戚で、秀吉に仕えていた福島正則が秀吉の死後、
石田三成と対立し関ケ原では東軍に属し先陣を勤め
東軍勝利の功労者となって広島城に入城、
輝元工事後の外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。

しかし、洪水で破損した城の修理許可の不備をとがめられ信濃に転封になりました。

福島氏の転封により、毛利氏に対する牽制も期待され
紀伊和歌山城主だった浅野長晟(外様大名であるが徳川と姻戚関係)が
中国地方の要の広島に配置されました。

以後明治維新までのおおよそ250年間、
浅野氏が12代にわたって広島城主を勤めています。

廃藩置県以後、城内は旧陸軍施設がもうけられ、
また火災により本丸、三の丸が焼失、建造物は次第になくなりました。

残っていた大天守、二の丸等の建物は
1945年の原子爆弾により全て倒壊してしまいました。

壊滅して6年後、広島でおこなわれた第6回国体に先立って開催された
スポーツ博のシンボルとして木造の天守が建てられ、
天守前には当時アメリカで流行していた絶叫マシンの先駆けのジェットコースター的

乗り物がもうけられ、天守とともに博覧会の呼物になっていたそうです。

二代目天守は半年ほど建てられていたということなので
現在の天守は三代目で1958年に外観だけを復元する復元天守としてたてられた
鉄筋コンクリート造の建物になります。

内部は歴史博物館になっています。

広島城は建物が天守と二の丸まわりの建物が復元されていますが、
建物が少なく、天守に入っても鉄筋コンクリート造の展示施設感が強く、
江戸時代当時の建物の様子が感じ取りにくい内観となっています。

先日いった名古屋城も戦争で建物がなくなり、
同じ鉄筋コンクリート造で戦後天守が復元されていますが、
耐震問題で現在、天守内部拝観中止になっています。

広島城天守では入り口は新しく屋根あり通路が設置されました。

広島市のホームページによると
これは鉄筋コンクリート造とはいえ建築後60年が劣化による
天守入り口の南側外壁の一部がはく離、はく落することが考えられるため
来館者の安全確保のためとか。

広島城天守も今後耐震診断結果を踏まえた耐震対策と合わせて、
外壁補修の時期と、工法等を関係部局と協議調整中だそうです。

広島城でも彦根城の『ひこにゃん』のようにはやらそうと
ゆるキャラがいくつか作られているようです。 
写真は天守内展示にいたもので『もとにゃりくん』。

※城の兜はいつもかぶっているわけではないようです。

広島城の近くの県立美術館では、
『入城400年祈念広島浅野家の至宝―よみがえる大名文化―』
が開催されており、大名庭園である縮景園も見学して帰りました。

施工 山本

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